代表が語る

WESEEKヒストリー④ ー試練のち拡大ー

こんにちは。WESEEK代表の武井です。

前回のエントリー「WESEEKヒストリー③ ー黎明期の基幹技術選択ー」の続き、メンバー増に伴う試練と、受託企業としての開花、学生企業時代の全盛期までを書いていきます。

背景

創業から1年そこらの実績は簡単なホームページ制作やB4チラシデザインくらい、単価は10万~20万くらいの単発案件を不定期にこなす、という感じが続いたのだが、前回エントリーで紹介した自社サイトポートフォリオに着目し「組める相手」として見てくれる人が現れた。異業種交流会で知り合った「O氏」と、彼がセミナーを通じて知り合った「K氏」である。

社会人メンバー加入

知り合って間もなく、彼らが持っていたコネクションとアレンジ能力により大手不動産の案件が軽量ながらすぐさま決まったことで、案件飢餓に喘いでいたWESEEKの学生エンジニア達は大いに沸き立った。

そこから受託を増産すべく、O氏が友人2人を営業見習いとして引っ張ってきて営業チームが誕生。とてもじゃないけど給与を出しての雇用は不可能だったので当分は全員手弁当でということになったが、人数だけは一気に増えて10人前後となった。

がしかし…

綻び

端的に言えば彼らとの関係はうまく行かなかった。敗因はいくつかあるだろうが、最たる要因は彼らがエンジニアという人種のことを理解しないまま自身のものさしで評価しコントロールしようとしたことだろう。

新サービス開発検討では僕と同級生の何人かで言い争うことがしばしばであったが、それは僕たちにとっては技術や合理主義に基づいた批判合戦で、どれだけ強い言葉を使っていたとしてもスキルや人を貶める行為からは程遠い。しかしそれを観察していたK氏は、消極的な意見(飽くまで技術的な悲観論)を述べる僕をチームの勢いに逆行しているとみて排斥しようと試み、それはエンジニア陣の離反を招いてしまった。新プロジェクトキックオフから2週間後には瓦解してしまったのだから、悪手中の悪手だったのは疑いがない。

自身のミス振り返り

ただそもそも彼らが人事に介入しようとするまでに増長してしまった原因は僕にある。経営の本を多数読んでいたK氏が社長教育係になってくれるという申し出を快諾(むしろ当時は歓迎)してしまったり、「しばらく社長の椅子には俺が座る」と妙な形で形式から入ろうとしたのをそのまま許してしまったり、言ってみればパワーバランスを錯覚させるような施策(?)をあまり組織的な影響を疑うことなく進めてしまった。当時を知るメンバーに聞いたら今挙げた以外にもまだ出るだろう。個人としての力不足もあれば、トップの自覚というものが希薄過ぎたのだと思う。

技術畑出身の代表の強み

この件があってから、技術畑じゃない人が舵を取るときに気をつけないといけないことはなんだろう、逆に自分が技術畑出身だったからよかったこと、不足しがちなことはなんだろうと考えるようになった。

技術畑出身の代表の弱みはたぶん会社存続に関すること、主にお金に関することに弱いことだろう。極端な話「良いもの作るからあとはよろしく」で済ませたい人種である。なんと危ないことか…。

逆に強みとしては、技術で裏打ちされた者同士の関係には少なからずリスペクトが発生する。ヒト・モノ・カネのうち、ヒトファーストでスタートでき、かつ人材でブランディングできる組織にしていける素地があるのは強みなのだろうと思う。

技術の売り込み成功とその後

失敗だけで終わらなかったのが救い。

営業チーム発足時の体制は瓦解したものの、エンジニアメンバーは特に誰かが欠けるということもなく、WESEEKはこの後順調に拡大する。

その後の1: 間取り図比較・検索システム開発

O氏らが入り口を開いてくれた大手不動産案件を足掛かりに、突貫で作った間取り図比較・検索システムが不動産関連制作会社の目に止まり、一緒に商品開発・案件受注をさせていただく関係を構築できた。おかげで案件規模は1件あたり百数十万円から数百万円台になり、支出の少ない学生企業としては一撃で四半期黒字に持って行けるように。2008年のリーマンショックで不動産業界が不調に陥るまで懇意にしていただいたので、WESEEKにとっては貴重な収入源かつためになるビジネス経験となった。

その後の1.5: 大手新聞社と喧嘩

いや順調なだけじゃなかった。ある案件でWESEEKが三次請け、直契約はある大手新聞社だったのだが、なーんにもしてくれなくてなーんの役にも立たないのに連絡滞ってイライラしたのでちょっと噛みついてギスギスさせちゃったこともある。「商流?なにそれ?」っていう社長だったから、我々を押し上げてくれた二次請けの制作会社さんには大変ご迷惑をおかけしました。大人の世界ってむずかしい。

その後の2: リアルタイム対戦型クイズゲーム開発

受託だけじゃなくてやっぱり自社開発しないと!ってことでブラウザだけで起動可能なリアルタイム対戦型クイズゲームを作ったのもこの頃。学生の時間と勢いにものを言わせてガシガシ作ったシステムだった。楽しかったなー。

ニコ動というのがまた時代を感じさせる。動画を挙げてくれた opaya さんとは何度か飲みに行く仲になった。

その後の3、増資、株式会社化

起業時の資本金35万円だった有限会社WESEEKは、2007年には資本金を1500万に増やしオフィスも早稲田から高田馬場へと移転、「株式会社WESEEK」へと商号を変更した。

次回、WESEEKヒストリー

様々なシステムを開発し、世の中に提供した学生企業時代も創業から6年で終わりを迎える。

2010年、主力の多くが大学院を卒業し新卒として旅立って行った。

残されたメンバーが下した生き残りへの道とは。

今月のありがとうセルフィー

今月は社外のメンバーを紹介!

形部くんとセルフィー

WESEEKと戦略的パートナーシップを組んでいる株式会社コスモレナの代表、形部氏。
2016年頃にはWESEEKが開発を担ったとあるソーシャルゲーム開発案件にデザイナーインターンとして参画しており、その頃からの付き合いなので「形部くん」と呼んでいる。肩書きが「時空デザイナー」というちょっとやべーやつ。

GROWIやGROWI.cloud、その他受託案件のデザインはもちろん、直近では弊社技術イベント、普遍的そして実践的! ノンデザイナーのためのデザイン原論 【WESEEK Tech Conf #5】 へも助っ人登壇してくれた。コスモレナ社は少数ながら精鋭揃いで、WESEEKの泣き所であったデザイン面の穴を埋めてくれる。これからもよろしくね。頼りにしてる。

WESEEKヒストリー③ ー黎明期の基幹技術選択ー

こんにちは。WESEEK代表の武井です。

前回のエントリー、「WESEEKヒストリー② ー有限会社WESEEK起業ー」で起業した自分の会社、今回は黎明期の技術開発と受託案件獲得への道のりを書いていこうと思います。

2007年当時のWESEEKコーポレートサイト

黎明期、お仕事がない!

技術職の人間が代表の会社あるある、お仕事がない。大学との結びつきが強いわけでもなし、販路開拓は全くのゼロから。しかし学生企業にも強み(と言っていいのかはわからないが)はある。時間があること、特に創業メンバーはしばらく無給でも辞めないで走り続けられることは、ある種会社として利益を上げなければ存続できないという原則から外れられる武器である。

その「波に乗るまで比較的猶予期間がある」という特性を生かして会社を回せるところまで下地(取引先とか自社サービスの開発とか)を作れるのか、というのが後から気付いた「学生企業が通常企業になれるか解散するかの分水嶺」だったと思う。

基幹技術の選択

起業時の基本戦略

起業間もないWESEEKが採った基本戦略としては、

  • 基幹技術の確立
    • Adobe Flex によるリッチコンテンツで他社との差別化をはかる
  • 受託案件の獲得

を並行してやっていくことを掲げた。

テック企業なら生き残るために必要不可欠である基幹技術。技術者が社長の場合、少なくともそこだけは考えなしにはならないのが利点であるとは思う。

ケース: インフラを武器にしようとしたベンチャー

見てきたケースを挙げる。

同世代の他の代表がやっていた会社はインフラレイヤーが好きなメンバーで構成されていた会社で、「ワンコイン(500円)で提供するレンタルサーバー」を売り出していた。

当時としては価格破壊を狙ったものだったが、そもそもレンタルサーバーの差別化をサービスで行うにはコントロールパネルをユーザーフレンドリーにするか、もしくはサーバー上に載せる機能のセットアップをなるべく簡単にする(もちくは自動化)か、とにかくその辺りは人員が少ない学生企業では競争力を生みづらい。だからこその「価格」での勝負だったのだろうが、そこも基本的にはデータセンターの集約密度を高めるかが胆で、やはり価格だけではベンチャーに勝ち筋は生まれないように思う。

ケース: WESEEKの場合

WESEEKの場合も代表である僕の好みが反映され、「ものづくり」を行う会社だというのは確定した上で、その手段の選択で基幹技術が決まるという形になった。

Flash で遊んでいた原体験から

起業メンバーは自分自身も含め開発は得意な集団だとは思っていたが、それは飽くまでも同世代の間での話。世の中の開発専門の会社との差別化要因が必要なのは言わずもがなだ。

その最初の武器を Adobe Flex によるリッチコンテンツにしよう、というのは別に勝算があって決めたわけではない。ただ高校の時に Flash を少しやってみて「これはお手軽で面白い」と感じた経験、世の中のホームページやECサイトに対する「全然動きがない、面白くない」という感想から、これらを合わせて動きのある、今で言うインタラクションデザインを導入したシステムを作れれば他社ではなくWESEEKを選ぶのではないかという漠然とした感覚を持っていた。

ポートフォリオとしての自社サイト

初期はホームページ制作、CMSカスタムのような細かい案件をこなしつつ、空いた時間で Flash/Flex 技術のポートフォリオとなる自社サイトを構築した。


www.youtube.com

上の動画はわざわざこのエントリーのために当時のホームページのデータを引っ張り出して来て Google Chrome Portable の古いバージョンで閲覧して撮ったものだが、いや今見てもよくできている(自画自賛)。

アニメだけではなく、現在時刻を反映させたアナログ時計やカレンダー、外の昼夜切り替え、その時の東京の天気情報をRSS取得して屋外に雨や雪を降らせたりといったシステム面の実装は、技術力アピールのために入れた部分。クリックしたら伸びるサボテンとか、いろいろ遊んだ砂場だったなー。

フロントエンドを先駆ける

この自社サイトはその後4~5年はどこでも「すごいね!いくら出したら同じの作ってくれる?」と言われる看板になった。黎明期のWESEEKはリッチコンテンツの制作、プログラマブルFlash/Flexを基幹技術とし、後に J2EE を組み合わせてフルスタック化するという選択したことになる。

因みに Gmail が一般的なものになってきて Ajax や XHR が基本的な Web の技術になるのはもう数年後、JavaScript や node が台頭してブラウザで今日の「フロントエンド技術」が市民権を得るのは10年後のことだ。Flex / Flash Player は Apple によってトドメを刺されたが、その頃の知見は2021年現在でも活きている。先見の明はあったはずだと信じている。

営業の入り口、異業種交流会

しかし Flex をやりたくても、それを買ってくれるお客さんは簡単には手に入らない。システムやホームページでリッチコンテンツを取り扱いたいという需要がないのだから。
そこでまずは Flex に限らず Web 全般の受託案件の需要を求めて異業種交流会にいくつか参加し、名刺交換から案件獲得という地味な開拓を行った。

今だととてもこの手を使おうとは思わない。受託の発注先を増やしたいなら案件のディレクションだけを行いたい会社にコンタクトをするのが近道だとは思うが、この頃はなんでもビジネスっぽいことをやってみるのが楽しい頃だったので地道な営業も社会勉強だと思ってやっていた。

社会人メンバー加入!受託量産計画へ

異業種交流会から得た小さな案件を細々とこなす中、自社サイトポートフォリオに着目しWESEEKを「組める相手」として見てくれる人が現れる。同じく異業種交流会で知り合った、20台後半の…あれは何をやっていた人だったんだろう。よくわからないけど、「技術はありそうだけど、周りの大人は仕事くれないの?もったいないね」と言ってくれて、じゃあ自分たちが仕事獲得してくるよと申し出てくれた。「O氏」としておく。

それまで「WESEEKは仕事を投げる先に値するか?」という目で評価・接触されたことはあったが、「一緒に仕事をするに値するか?」というジャッジはされたことがなかったので、それは単純に嬉しく、その申し出を頼れるなら頼りたいと思った。技術者は開発をやりたい生き物なのだ。

チーム編成

O氏は今後受託を増やしてもっと案件を回していくなら複数人必要だと、すぐに縁故でしばらく無給でも協力してくれる3人を連れてきてくれた。自身の部下となる人2人とそれから経営とマネジメントを牽引してくれるK氏だった。

技術チーム5人ほどを率いる僕と、営業・経営でサポートしてくれるO氏&K氏、それから2名の営業チームと戦力は一気に増えた。非エンジニア・デザイナーのメンバー加入は創業後初である。

しかしこの社会人チーム加入により、WESEEK史上唯一のクーデター未遂事件、通称「OK事変」が起こることになる…

次回、WESEEKヒストリー

学生企業の乗っ取りを謀る社会人たち、

そこで気付いた技術畑出身社長であることの意味、

そしてそこから得たチャンスについて。

今月のありがとうセルフィー

今月はGROWI本体開発チームであるGROWI村から、期間限定でGROWI.cloud開発チームへとヘルプで移籍し三面六臂の働きをしてくれた市澤くんです。

市澤くんとセルフィ―

GROWI.cloud は今月5/13日に法人向けプランを一新するリニューアルリリース(TODO:プレスへのリンクを貼る)を行いました。計画が立ち上がったのは2月でしたが、GROWI.cloud開発チームの業務は機能開発はもちろん、インフラ保守、障害時のトラブルシュート、お客様へのテクニカルサポートと業務は山盛りで、レギュラーメンバーのみでは新プラン公開に必要な機能開発とサイトリニューアルのためのコーディングのスピードがどうしても出ない期間が続いていました。

そこへ投入したのが今回のありがとうセルフィーの対象、パラディン市澤!2020年4月入社の2年目ですが、開発もサポートも、いつも人より一歩先・一段上のパフォーマンスを出してくれます。今回もありがとう。頼りにしてる。

WESEEKヒストリー② ー有限会社WESEEK起業ー

こんにちは。WESEEK代表の武井です。

前回のエントリー、「WESEEKヒストリー① ー起業熱にやられてから沈没までー」からもう1ヶ月ですね。
今回は起業時点の仲間集め、オフィスや資金のことを書いていきます。

起業までのよもやま話

「とにかく仕事をしたい」
「自分の技術でビジネスをしたい」

起業1発目の会社と物別れに終わり、そんな思いが暴走したのが大学2年生の4月。
自分でやってしまえ!というのはもう勢いで決めていたものの、次の悩みは場所をどうするかよりも「誰とやろうかなあ」だった。前回の失敗からやっぱ一緒にやるなら気が合うかどうか、尊敬できるかどうかって重要だよなと思ったので、大学の同級生で誰に声をかけるかをぼんやり考えて、その時あてにできそうなのは2人くらいいたのは覚えてる。一人で始めようというのは全く頭になかったので、なんとなく「会社をつくる」=「組織(複数人)をつくる」だとみなしていたんだと思う。

基礎は「No.2をどうやって見つけるか」である

思い出話を離れて結構真面目な話。

2021年時点でWESEEKは創業16年を数えている。成功しているかどうかはさておき、会社が生き残る確率は10年で6%、20年で0.3%なので、そこそこ稀な部類には入るだろう。

どうやって長く企業を存続できたのか?
そう聞かれたときは迷いなく「No.2と言える人材をどうやって見つけるか」だと答えている。

持論

どんな会社でもスケールするには代表一人ではやっていけない。仲間が必要だけれど、ピラミッド構造で頂点が一人では限界が早いと思っている。理由は挙げればキリがないが一部を挙げると、

  • 代表の壁打ち役、特にイエスマンではない跳ね返し役がいた方が代表が強くなる
  • 組織の文化醸成のために、代表の考えをピラミッドの下方に向けて伝播していく際、代表が一人で喚くより対等なNo.2との議論をメンバーに見せたほうが説得力がある
  • 父親役と母親役を、問題の種別に応じて交代して対応できる
  • etc...

これらをやるには、全く気質が同じ人間じゃない方がよく、程よく考え方が違って、でも気が合う、上下関係が強すぎない相手…そんな人物が求められるんじゃないかなと思う。

WESEEKのケース

現在のWESEEKのNo.2は二代目だが、出自は早稲田大学の同じ学部学科の友人で、ジョインしたのも創業間もない謂わば生え抜き。大学の繋がりでそういった人材を獲得できたというのは僕にとっては非常に僥倖で、学位は手にしていないけれど十分に入学の元は取れたと思っている。(学費払ってくれたお父さんお母さんありがとう)

そして初代No.2もまた、同じ大学の学部学科での"S氏"であった。

あいつが Yes と言ったら起業しよう

大学の同級生のS氏とは当時Linuxディストリビューションの話だったりJavaの課題の話だったり、主に技術的ないろんな話をしてた。高校までそういった話をできる友人がいなかった僕はそれがとても楽しかったし、実験でも席が近くて自分に負けず劣らず要領良い彼をなんとなく認めていたところがあった。

当時起業するにあたってはオフィスという場所をどうするかとか、職能的にプログラマーの他にデザイナーがいた方がいいんじゃないかとか、そもそも何を事業の柱にするんだとかいろいろ考えないといけないことはあったと思うんだけど、でもその辺はなぜか後回しにして、とりあえずあいつに話を持ちかけて Yes と返ってきたらもうそれで材料が揃ったと見ていいのではないか、という考えに至っていた(この辺は何から揃えるかって性格出そうだよね)。

今から思えば「何をやるか」なんて Adobe の Flex という技術を使って珍しいソフトを作るんだくらいのことしか思いついてなかったんだけど、大学のカフェテリアに呼び出していきなり話をぶつけたその場で Yes をもらえたのは嬉しかった。

パートナーとしてのS氏

実はS氏は2010年に大学院卒と同時にWESEEKを離れ、NTTコミュニケーションズに新卒入社している。WESEEK在籍時はCTO的な動き方もやりながら、僕からの印象で言えば「技術的・運用的正しさとは何か」を第一に仕事の規範や設計を定めていたと思う。対して自分はビジネスに於ける現実性は何かを主に見ていたので、そういう補完関係にあったかもしれない。

しかし縁というのは面白いもので、今ではWESEEK社内にはいないものの、取引先として一緒のチームで仕事をしている。商流やプロジェクトオーナーというマクロ視点で見れば、今No.1とNo.2が逆転して動いているとも言える。彼はWESEEKという小さな会社にいるよりも、大きな会社で裁量を得られるポジションで辣腕を振るうことができる気がする。彼がやりたいことを補佐・実現するNo.2に、僕とWESEEKはなれているだろうか。

パートナー論は、タイプ別パートナー診断とか、戦略企画室に於けるパートナー論とか、自分の中で書きたいトピックがいくつかあるので、今後のエントリーで触れようと思う。

創業メンバー4人が決まる

S氏獲得が決まったあと、身辺で誘えそうなデザイナーの人を誘い、3人に。
そのまた友人を誘ってライターとしてジョインしてくれて、創業メンバーは4人となった。

オフィス

どういう思考でそうしたのかは忘れたけれど、最初は自宅をオフィスにするでもなく、大学に頼るでもなく、無理してでも自分で借りることを決めた。これは「皆が集まる場所が必要だ」とこの時からなんとなく感じていたオフィスに対する価値感で、コロナ禍である2021年現在、数々の企業がオフィスを手放し減床させている様子を見ても尚同じ感覚を持っている。オフィス論もいずれ書きたい。

因みに初めてのオフィスは、早稲田鶴巻町の住宅街にあるマンションの一室だった。

起業資金

さてじゃあ元手はどうするの、という話で。

武井家の流儀

ここはまた両親のおかげなところが大きいのだが、武井家では姉と僕が産まれてからの出産祝いや入学・進学祝いなど、親戚から送ってもらったお金は全て子供名義で貯金しており、祖父母やおじ、おばからもらったお年玉も全て使うことは許されておらずその8~9割は毎年「将来のなにか貯金」に徴収されていた。(おかげで友達との「お年玉何に使う?」議論にはあまり入れなかった)

大学入学前後くらいで「何に使うかは自分で決めなさい」とは言われていたが、その額約300万円…生活費・学費・その他諸々とは別に子供のためにそれだけ貯めておくんだから恐れ入る。

使途

その使途をどうするか、これといった選択肢は思いついてなかった。別に車には興味ないし、かといってゲームや楽器を買うにはでかすぎる。では起業資金ではどうかと。かわいがってくれた親戚と両親にもらったお金を起業の元手にするというのは自分としてしっくりくる選択だった。

それもあって、友人達で持ち寄るというのは提案もしなかった。失敗した時の金銭的な責任は全部自分で負う覚悟を先にした方が、トラブルを未然に防ぎ、やりたいこと(事業と言うよりは各自が技術を楽しむこと)に注力できるはずだ。

「なにも決まってないんだけど」と前置きしつつ、電話口で「メンバーは4人で」「オフィスも借りる予定で」とやけに具体的な話をする息子に、母は「もういろいろ決めてるんじゃないの」と半ば呆れながらも良い使途に思うと喜んでくれたのには内心ほっとした。

社名決定会議

いよいよ起業!の前に、商号を決める必要がある。みなさん社名ってどれくらいこだわるんでしょうね…

WESEEKの場合は、まったく白紙の状態で4人集まって、大久保キャンパス付近のサイゼリアで7時間くらいだべりながら社名を決めた。

社名決定会議資料のうち、何枚か書いたうちの決定稿

起業メンバーに早稲田と稲穂と自転車という牧歌的風景が好きすぎる子がいたので、危うく社名は「有限会社わさぱん」になりかけた。トイレに行く途中でS氏に多数派工作をもちかけたのは覚えている。

意味づけ

頭のWは早稲田発で、「我々はいつも探し続ける」というメッセージを込めている。何を探しているか?それは、好きな技術かもしれないし、お仕事かもしれないし、人かもしれない。それは何でも良くて、WESEEKに関わる人みんながそれを見つけたり見つからなかったり一緒に探したりしながら win-win になれたらいいなと。そんな思いで命名した会社です。

次回、WESEEKヒストリー

全4回くらいに収めようと思ってたのに、持論とかつらつら書いてたら全然ヒストリー進まないじゃないか。。

次回は創業してからリーマンショックあたりまでの仕事の話と、その間にあったトピックをタイトルだけ列挙しつつちょっとテンポを上げて時間軸の整理をしようと思う。

今月のありがとうセルフィー

今月はWESEEK高田馬場オフィスの防火隊隊長に名乗りをあげてくれた熊坂さん!

熊坂さんとセルフィ―

ビルから防火管理者設定の要請があり、社員に「誰がやる?」と諮りつつ(こんなん誰もやらんやろ…)と思っていたところに元気よく「やります!」と宣言してくれて、あの時は社員全員が女神の降臨を見たと思います。以前にもオフィスの非常食・災害対策設備購入の提案をしてくれたり、ことあるごとに Slack にハザードマップを貼り付けたりとかなりの防災マニア。デジタル世界に浸かりっぱなしでリアル世界の危機に疎くなっている我々に正しい知識と恐怖心を植え付けてくれる、WESEEKのAlertManager、いやPrometheusか?。今月もありがとう。これからも頼りにしてる。

WESEEKヒストリー① ー起業熱にやられてから沈没までー

こんにちは。WESEEK, Inc. 代表取締役の武井です。本ブログ初登場です。

WESEEKのことを知ってもらうために代表自らブログを書こう

会社の看板として自分をプッシュしていくというのは性分ではないのですが、そんな軟弱な代表に発破をかける人物が現れた。

ブランディングではまずは発信して、武井さんが何者かを知ってもらう事が大事です。コードを書く時間を減らして執筆を!

2月からGROWI.cloudのグロースに携わってくれている 河野 拓 氏です。
マジかよ、コード書く時間を人質に取るとは…

いや大事なのはわかってるんだけどねー。腰が重くて。
でもだからこそはっきり「必要だからやれ」と言ってくれるのはありがたいです。おかげでやる気出た、がんばる。

ネタどうしよう

ネタもいろいろ考えたんですが、戦略企画室の太田さんに壁打ちしてもらった結果としてはとりあえずWESEEKってもう17年も続いてる会社だし、起業から今までの流れを会社の沿革を知れるストーリーとして振り返りつつ書いていこうかなと思います。

2019年11月の高田馬場新オフィス完成記念

起業する前の話

…と言いつつ今日は WESEEK 起業するところまで書かないんだけど

知らない同級生が現れた!

発端は大学1年生の冬、当時所属していたワセオケというサークルで同級生から誘いを受けたことだった。

ワセオケは超大所帯なので同じ学年でも楽器が違ったら顔も名前もわからないということはざらなんだけれども、誘ってくれた彼もどこからか「武井ってやつがPCとかプログラミングできそう」みたいな噂を聞きつけてそれまで一度も話したことはなかったけれど声をかけてくれた。

大学生でも起業ってできるんだ

話を聞いてみると、早稲田大学には「インキュベーション推進室」というものがあり(現在の「アントレプレナーシップセンター」)、コンペ等を経てその機関からお墨付きをもらえたので、事業化を行うまで旧早稲田実業学校校舎内にオフィスを構えることができる、そこでWebを使って一緒に事業をやろう!というのが概要。

将来はなんとなくすげープログラマにはなりたいけど、なんとなくどこかの会社に勤めるのだろうと考えていた自分にとっては「学生で起業ってそんな身近にあることなんだ」と気付いた出来事だった。

余談: 熱の出る伝染病

起業マインド・起業熱というものは伝染病なんですね

シリコンバレーの起業家の講演でそう言ってる人がいたんじゃ。
なんでも一度罹るとそのことしか考えられなくなって、熱が下がらなくなるそうな…。

実際自分が後に起業する際もほぼその熱にやられてだから、なるほどなあと思ったものである。

じゃあその病気ってどこからやってくるんだって話で、持論だけど、今から思うと早稲田大学というマンモス校だからこそそういった突然変異種が生まれやすいのはあったと思う。で、一度発生した突然変異種が同級生や後輩達に病原菌をまき散らすことにより「起業家が多い大学」というクラスタになる、ってカラクリなのかなあと。

そして起業熱は再発する病気らしい。ホンマでっか…?幸いまだ一度も会社を潰してないので体験してないんだけど、人生を通して検証できたらと思う。

船出

学生での起業に参画!

大学生たるものやはり勢いが大事というか、勢いに流される生き物というか。「会社をやる」ってなんか普通じゃない学生生活を送れそうでなんかワクワクして、二つ返事で引き受けたのは覚えている。事業内容も教育とインターネットの融合に関係するものだったから理念として賛同もできた。僕は CTO ポジで招聘され、その他に代表の彼が高校の友人2人を誘っていて全部で4人での船出となった。ここでは「JPE社」としておく。

しかし活動し始めてからわかる、合う/合わない

初案件!

活動し始めたのがたしか2005年の年明けとかで、初っ端の案件として同じインキュベーション推進室に入居してた別の会社が軽いお仕事を振ってくれた。簡単に言えばホームページの問い合わせフォームからの問い合わせをメーラー風に管理するシステムの開発。ヒアリングから要件定義からサーバー構築、開発、ディプロイまで全部一人でやった。なにせ人生初案件かつその会社初の案件だったからね。張り切ってたなああの仕事は。

そして沈没へ

ただその会社でやった仕事はひとつだけで、2ヶ月後には辞めることになってたと思う。兎にも角にもエンジニアの武井と代表の彼とが反りが合わなかったわけだが、どういう点だったか思い返してみると、

  • 技術選定に関してのびのびやらせてもらえない
    • JPE社代表の感覚: 自分が良いと思っていた技術を採用して安心したい
    • 武井の感覚: 技術レベルが同じもの同士だったら議論にもなるが、そうでなければ枷になる
  • ↑でこじれた結果、技術トップは○○くんにするねと言われる(トップダウンによる交代)
    • JPE社代表の感覚: 人事はトップが掌握するもの
    • 武井の感覚: フラット志向なのもあり、同級生で始めた4人の会社で社長権限を簡単に行使するのに違和感があった

あたりか…
元々友達だったところからの一緒に起業というわけではなかったので無理もなかったのかもしれないけど、意気揚々と出航して東京湾内で沈没したみたいなスピードだった。

あとは初案件の売り上げの分配の時に「バグが原因でクライアントから受け取る報酬が少なくなった」という嘘で減額されたことかな。これは分配自体が辞めた後の話だから辞める辞めないを決める要素にはなってないんだけど、呉越同舟するにしても普通に信義とかモラルに問題がある。遅かれ早かれ摩擦ポイントになってただろう。

自分の方がうまくできるんじゃないか

エンジニアを蔑ろにする会社に用はない。いや自分がエンジニアだからこそエンジニアが伸び伸び仕事できる環境が必須なのだ。

JPE社を辞めることになってから必然的にそのような考えになり、しかしこんなに仕事をしたいと思っているのに場所がない。それで思ったのが「そうか、ないなら作ってしまえ」だった。なぜかエンジニアのアルバイトという選択肢は全く思い浮かばなかったんだけど、あれが病人の症状なのだろう。

得られたモノ

会社を興して何をやりたいのかというビジョンはまったくなく、ただただ「仕事したい」だけがモチベーション。大学の授業が必須教養ばかりでフーリエ変換に食傷気味になってたのもあっただろう。ただ「会社を率いる CEO として自信があるか?」に関しては、全くないこともなかったけど「JPE社のときよりはうまくチームメイクできるはず」っていう反対方向のベンチマークがあって踏み切れたんだと思う。

JPE社立ち上げから得られたモノはそう多くない。
それでも自分だけでは起業しようという思考には至らなかったと思うし、プロになるってどういうことなのかを考えるきっかけにはなった。なにより既にある「学級委員」とか「部長」という職に就任しなくても、行動すれば自らチームをつくれるんだということに気付かせてもらったのは感謝している。

次の船出に向けて

今度は自分で船を用意する。乗ってくれる人を探さなければならない。
事業の柱もオフィスをどうするかも全く決まってない。でも学習して決めたこともある。

エンジニアがそれぞれの強みをいかんなく発揮して楽しく仕事ができる会社を作ろう。
がんばってくれたエンジニアには正当に報いよう。
そして従業員に嘘をつく経営者にだけは決してならない。

有限会社 WESEEK の起業は次回エントリーで。

跡地にはあの会社

因みにJPE社を辞める時「いやオレいなかったらはやってけないでしょ」と思ってたけど、やっぱりその後長くは続かず…
起業してから1年後くらいにインキュベーション推進室に遊びに行ったらJPE社が入居してた部屋は別の会社の表札に変わっていて、「株式会社リブセンス」と書いてあったのを覚えている。

今月のありがとうセルフィー

今月は NCom 系受託開発チームの緒方くん、堤さん、蛸井くん。

Logdiff三銃士とセルフィー

滅多にないことなんだけれど、社員のちょっとした勘違いから納期ギリギリの状況に陥ったのが先週の水曜日。ギリギリかも?ってなるの自体数年ぶりだったけど、水曜日中に正確な状況把握と各種調整は完了し、あとはやるだけという中で奮闘してくれたのがこの三銃士でした。今月もありがとう。頼りにしてる。