こんにちは。WESEEK代表の武井です。
前回のエントリー「【代表が語る】WESEEKヒストリー③ ー黎明期の基幹技術選択ー」の続き、メンバー増に伴う試練と、受託企業としての開花、学生企業時代の全盛期までを書いていきます。
Contents
背景
創業から1年そこらの実績は簡単なホームページ制作やB4チラシデザインくらい、単価は10万~20万くらいの単発案件を不定期にこなす、という感じが続いたのだが、前回エントリーで紹介した自社サイトポートフォリオに着目し「組める相手」として見てくれる人が現れた。異業種交流会で知り合った「O氏」と、彼がセミナーを通じて知り合った「K氏」である。
社会人メンバー加入
知り合って間もなく、彼らが持っていたコネクションとアレンジ能力により大手不動産の案件が軽量ながらすぐさま決まったことで、案件飢餓に喘いでいたWESEEKの学生エンジニア達は大いに沸き立った。
そこから受託を増産すべく、O氏が友人2人を営業見習いとして引っ張ってきて営業チームが誕生。とてもじゃないけど給与を出しての雇用は不可能だったので当分は全員手弁当でということになったが、人数だけは一気に増えて10人前後となった。
がしかし…
綻び
端的に言えば彼らとの関係はうまく行かなかった。敗因はいくつかあるだろうが、最たる要因は彼らがエンジニアという人種のことを理解しないまま自身のものさしで評価しコントロールしようとしたことだろう。
新サービス開発検討では僕と同級生の何人かで言い争うことがしばしばであったが、それは僕たちにとっては技術や合理主義に基づいた批判合戦で、どれだけ強い言葉を使っていたとしてもスキルや人を貶める行為からは程遠い。しかしそれを観察していたK氏は、消極的な意見(飽くまで技術的な悲観論)を述べる僕をチームの勢いに逆行しているとみて排斥しようと試み、それはエンジニア陣の離反を招いてしまった。新プロジェクトキックオフから2週間後には瓦解してしまったのだから、悪手中の悪手だったのは疑いがない。
自身のミス振り返り
ただそもそも彼らが人事に介入しようとするまでに増長してしまった原因は僕にある。経営の本を多数読んでいたK氏が社長教育係になってくれるという申し出を快諾(むしろ当時は歓迎)してしまったり、「しばらく社長の椅子には俺が座る」と妙な形で形式から入ろうとしたのをそのまま許してしまったり、言ってみればパワーバランスを錯覚させるような施策(?)をあまり組織的な影響を疑うことなく進めてしまった。当時を知るメンバーに聞いたら今挙げた以外にもまだ出るだろう。個人としての力不足もあれば、トップの自覚というものが希薄過ぎたのだと思う。
技術畑出身の代表の強み
この件があってから、技術畑じゃない人が舵を取るときに気をつけないといけないことはなんだろう、逆に自分が技術畑出身だったからよかったこと、不足しがちなことはなんだろうと考えるようになった。
技術畑出身の代表の弱みはたぶん会社存続に関すること、主にお金に関することに弱いことだろう。極端な話「良いもの作るからあとはよろしく」で済ませたい人種である。なんと危ないことか…。
逆に強みとしては、技術で裏打ちされた者同士の関係には少なからずリスペクトが発生する。ヒト・モノ・カネのうち、ヒトファーストでスタートでき、かつ人材でブランディングできる組織にしていける素地があるのは強みなのだろうと思う。
技術の売り込み成功とその後
失敗だけで終わらなかったのが救い。
営業チーム発足時の体制は瓦解したものの、エンジニアメンバーは特に誰かが欠けるということもなく、WESEEKはこの後順調に拡大する。
その後の1: 間取り図比較・検索システム開発
O氏らが入り口を開いてくれた大手不動産案件を足掛かりに、突貫で作った間取り図比較・検索システムが不動産関連制作会社の目に止まり、一緒に商品開発・案件受注をさせていただく関係を構築できた。おかげで案件規模は1件あたり百数十万円から数百万円台になり、支出の少ない学生企業としては一撃で四半期黒字に持って行けるように。2008年のリーマンショックで不動産業界が不調に陥るまで懇意にしていただいたので、WESEEKにとっては貴重な収入源かつためになるビジネス経験となった。
その後の1.5: 大手新聞社と喧嘩
いや順調なだけじゃなかった。ある案件でWESEEKが三次請け、直契約はある大手新聞社だったのだが、なーんにもしてくれなくてなーんの役にも立たないのに連絡滞ってイライラしたのでちょっと噛みついてギスギスさせちゃったこともある。「商流?なにそれ?」っていう社長だったから、我々を押し上げてくれた二次請けの制作会社さんには大変ご迷惑をおかけしました。大人の世界ってむずかしい。
その後の2: リアルタイム対戦型クイズゲーム開発
受託だけじゃなくてやっぱり自社開発しないと!ってことでブラウザだけで起動可能なリアルタイム対戦型クイズゲームを作ったのもこの頃。学生の時間と勢いにものを言わせてガシガシ作ったシステムだった。楽しかったなー。
ニコ動というのがまた時代を感じさせる。動画を挙げてくれた opaya さんとは何度か飲みに行く仲になった。
その後の3、増資、株式会社化
起業時の資本金35万円だった有限会社WESEEKは、2007年には資本金を1500万に増やしオフィスも早稲田から高田馬場へと移転、「株式会社WESEEK」へと商号を変更した。
次回、WESEEKヒストリー
様々なシステムを開発し、世の中に提供した学生企業時代も創業から6年で終わりを迎える。
2010年、主力の多くが大学院を卒業し新卒として旅立って行った。
残されたメンバーが下した生き残りへの道とは。
今月のありがとうセルフィー
今月は社外のメンバーを紹介!
WESEEKと戦略的パートナーシップを組んでいる株式会社コスモレナの代表、形部氏。
2016年頃にはWESEEKが開発を担ったとあるソーシャルゲーム開発案件にデザイナーインターンとして参画しており、その頃からの付き合いなので「形部くん」と呼んでいる。肩書きが「時空デザイナー」というちょっとやべーやつ。
GROWIやGROWI.cloud、その他受託案件のデザインはもちろん、直近では弊社技術イベント、普遍的そして実践的! ノンデザイナーのためのデザイン原論 【WESEEK Tech Conf #5】 へも助っ人登壇してくれた。コスモレナ社は少数ながら精鋭揃いで、WESEEKの泣き所であったデザイン面の穴を埋めてくれる。これからもよろしくね。頼りにしてる。
他の【代表が語る】をご覧になりたい方は、
からご覧ください。