【代表が語る】WESEEKヒストリー①ー起業熱にやられてから沈没までー

こんにちは。WESEEK, Inc. 代表取締役の武井です。本ブログ初登場です。

2019年11月の高田馬場新オフィス完成記念

WESEEKのことを知ってもらうために代表自らブログを書こう

会社の看板として自分をプッシュしていくというのは性分ではないのですが、そんな軟弱な代表に発破をかける人物が現れた。

ブランディングではまずは発信して、武井さんが何者かを知ってもらう事が大事です。コードを書く時間を減らして執筆を!

2月からGROWI.cloudのグロースに携わってくれている 河野 拓 氏です。
マジかよ、コード書く時間を人質に取るとは…

いや大事なのはわかってるんだけどねー。腰が重くて。
でもだからこそはっきり「必要だからやれ」と言ってくれるのはありがたいです。おかげでやる気出た、がんばる。

ネタどうしよう

ネタもいろいろ考えたんですが、戦略企画室の太田さんに壁打ちしてもらった結果としてはとりあえずWESEEKってもう17年も続いてる会社だし、起業から今までの流れを会社の沿革を知れるストーリーとして振り返りつつ書いていこうかなと思います。

起業する前の話

…と言いつつ今日は WESEEK 起業するところまで書かないんだけど

知らない同級生が現れた!

発端は大学1年生の冬、当時所属していたワセオケというサークルで同級生から誘いを受けたことだった。

ワセオケは超大所帯なので同じ学年でも楽器が違ったら顔も名前もわからないということはざらなんだけれども、誘ってくれた彼もどこからか「武井ってやつがPCとかプログラミングできそう」みたいな噂を聞きつけてそれまで一度も話したことはなかったけれど声をかけてくれた。

大学生でも起業ってできるんだ

話を聞いてみると、早稲田大学には「インキュベーション推進室」というものがあり(現在の「アントレプレナーシップセンター」)、コンペ等を経てその機関からお墨付きをもらえたので、事業化を行うまで旧早稲田実業学校校舎内にオフィスを構えることができる、そこでWebを使って一緒に事業をやろう!というのが概要。

将来はなんとなくすげープログラマにはなりたいけど、なんとなくどこかの会社に勤めるのだろうと考えていた自分にとっては「学生で起業ってそんな身近にあることなんだ」と気付いた出来事だった。

余談: 熱の出る伝染病

起業マインド・起業熱というものは伝染病なんですね

シリコンバレーの起業家の講演でそう言ってる人がいたんじゃ。
なんでも一度罹るとそのことしか考えられなくなって、熱が下がらなくなるそうな…。

実際自分が後に起業する際もほぼその熱にやられてだから、なるほどなあと思ったものである。

じゃあその病気ってどこからやってくるんだって話で、持論だけど、今から思うと早稲田大学というマンモス校だからこそそういった突然変異種が生まれやすいのはあったと思う。で、一度発生した突然変異種が同級生や後輩達に病原菌をまき散らすことにより「起業家が多い大学」というクラスタになる、ってカラクリなのかなあと。

そして起業熱は再発する病気らしい。ホンマでっか…?幸いまだ一度も会社を潰してないので体験してないんだけど、人生を通して検証できたらと思う。

船出

学生での起業に参画!

大学生たるものやはり勢いが大事というか、勢いに流される生き物というか。「会社をやる」ってなんか普通じゃない学生生活を送れそうでなんかワクワクして、二つ返事で引き受けたのは覚えている。事業内容も教育とインターネットの融合に関係するものだったから理念として賛同もできた。僕は CTO ポジで招聘され、その他に代表の彼が高校の友人2人を誘っていて全部で4人での船出となった。ここでは「JPE社」としておく。

しかし活動し始めてからわかる、合う/合わない

初案件!

活動し始めたのがたしか2005年の年明けとかで、初っ端の案件として同じインキュベーション推進室に入居してた別の会社が軽いお仕事を振ってくれた。簡単に言えばホームページの問い合わせフォームからの問い合わせをメーラー風に管理するシステムの開発。ヒアリングから要件定義からサーバー構築、開発、ディプロイまで全部一人でやった。なにせ人生初案件かつその会社初の案件だったからね。張り切ってたなああの仕事は。

そして沈没へ

ただその会社でやった仕事はひとつだけで、2ヶ月後には辞めることになってたと思う。兎にも角にもエンジニアの武井と代表の彼とが反りが合わなかったわけだが、どういう点だったか思い返してみると、

  • 技術選定に関してのびのびやらせてもらえない
    • JPE社代表の感覚: 自分が良いと思っていた技術を採用して安心したい
    • 武井の感覚: 技術レベルが同じもの同士だったら議論にもなるが、そうでなければ枷になる
  • ↑でこじれた結果、技術トップは○○くんにするねと言われる(トップダウンによる交代)
    • JPE社代表の感覚: 人事はトップが掌握するもの
    • 武井の感覚: フラット志向なのもあり、同級生で始めた4人の会社で社長権限を簡単に行使するのに違和感があった

あたりか…
元々友達だったところからの一緒に起業というわけではなかったので無理もなかったのかもしれないけど、意気揚々と出航して東京湾内で沈没したみたいなスピードだった。

あとは初案件の売り上げの分配の時に「バグが原因でクライアントから受け取る報酬が少なくなった」という嘘で減額されたことかな。これは分配自体が辞めた後の話だから辞める辞めないを決める要素にはなってないんだけど、呉越同舟するにしても普通に信義とかモラルに問題がある。遅かれ早かれ摩擦ポイントになってただろう。

自分の方がうまくできるんじゃないか

エンジニアを蔑ろにする会社に用はない。いや自分がエンジニアだからこそエンジニアが伸び伸び仕事できる環境が必須なのだ。

JPE社を辞めることになってから必然的にそのような考えになり、しかしこんなに仕事をしたいと思っているのに場所がない。それで思ったのが「そうか、ないなら作ってしまえ」だった。なぜかエンジニアのアルバイトという選択肢は全く思い浮かばなかったんだけど、あれが病人の症状なのだろう。

得られたモノ

会社を興して何をやりたいのかというビジョンはまったくなく、ただただ「仕事したい」だけがモチベーション。大学の授業が必須教養ばかりでフーリエ変換に食傷気味になってたのもあっただろう。ただ「会社を率いる CEO として自信があるか?」に関しては、全くないこともなかったけど「JPE社のときよりはうまくチームメイクできるはず」っていう反対方向のベンチマークがあって踏み切れたんだと思う。

JPE社立ち上げから得られたモノはそう多くない。
それでも自分だけでは起業しようという思考には至らなかったと思うし、プロになるってどういうことなのかを考えるきっかけにはなった。なにより既にある「学級委員」とか「部長」という職に就任しなくても、行動すれば自らチームをつくれるんだということに気付かせてもらったのは感謝している。

次の船出に向けて

今度は自分で船を用意する。乗ってくれる人を探さなければならない。
事業の柱もオフィスをどうするかも全く決まってない。でも学習して決めたこともある。

エンジニアがそれぞれの強みをいかんなく発揮して楽しく仕事ができる会社を作ろう。
がんばってくれたエンジニアには正当に報いよう。
そして従業員に嘘をつく経営者にだけは決してならない。

有限会社 WESEEK の起業は次回エントリーで。

跡地にはあの会社

因みにJPE社を辞める時「いやオレいなかったらはやってけないでしょ」と思ってたけど、やっぱりその後長くは続かず…
起業してから1年後くらいにインキュベーション推進室に遊びに行ったらJPE社が入居してた部屋は別の会社の表札に変わっていて、「株式会社リブセンス」と書いてあったのを覚えている。

今月のありがとうセルフィー

今月は NCom 系受託開発チームの緒方くん、堤さん、蛸井くん。

Logdiff三銃士とセルフィー

滅多にないことなんだけれど、社員のちょっとした勘違いから納期ギリギリの状況に陥ったのが先週の水曜日。ギリギリかも?ってなるの自体数年ぶりだったけど、水曜日中に正確な状況把握と各種調整は完了し、あとはやるだけという中で奮闘してくれたのがこの三銃士でした。今月もありがとう。頼りにしてる。

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